峠を越えた人々
伝承
大武丸(大猛丸)(?年)
坂上の田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(758年〜811年)

 ”雫石盆地に住む鬼「大武丸(大猛丸、高丸)」が坂上田村麻呂に滅ぼされた”という伝承が大倉神社(仙北市田沢湖)に伝わっています。市浦村(現青森県五所川原市)史料によると、「高丸」の名前が安倍一族の系譜に出ています
安倍貞任(あべのさだとう)(1019年?〜1062年)
源義家(みなもとのよしいえ)(1039年〜1106年)

 秋田県には安倍貞任をはじめとする安倍一族の伝承が多く残っています。「八乙女(やおとめ)公園(大仙市中仙町)」の安倍貞任と義家の伝承」、「抱返(だきかえり)神社(仙北市田沢湖)の伝承」など、貞任と義家が峠を越えて戦った伝承が残っています
史実・推定
北畠顕信(きたばたけあきのぶ)(南北朝:?〜1380年)
 南朝方の鎮守府将軍北畠顕信(北畠顕家の弟)が滴石(しずくいし)城(雫石町)に留まり、南部氏などの支援を得、国見峠を越えて仙北に出て、さらに多賀城を攻撃した記録があります
戸沢正安(とざわまさやす)(戦国・・・?)
 南
部氏との抗争に敗れた滴石(雫石町)城主「戸沢正安は、国見峠を越えて仙北郡に逃れたといわれています。その時、貝(ほら貝)を吹いた山が「貝吹岳」、また「国見峠」もこの時に名づけられたといわれています。
史書(近世)
北信愛(きたのぶちか)(戦国〜江戸:1523〜1623年)
 南部信直(なんぶのぶなお)の重臣で、戦国末期に、加賀の前田家へ豊臣秀吉へのとりなしを依頼するために冬の産内山(国見峠)を越えます。(奥羽永慶軍記)
巡見使(じゅんけんし)(江戸時代)
 
将軍が替わるたびに、諸国の情勢を調べるために派遣された徳川幕府の役人。巡見使を迎えるため、多くの人足による道普請(みちぶしん)が行われました。1633年巡見使の見立てによって、秋田藩と盛岡藩の藩境が確定しました。
公儀御馬買衆(こうぎおんうまかいしゅう)(江戸時代)
 
良馬の産地である出羽の仙北と陸奥の盛岡に、幕府が使う馬を購入するために派遣した馬買役人の一行。それに諸藩の馬買役人が同行し、一向は数百人にもなったとも言われています。公儀御馬買いは元禄時代まで続きました。

遊行上人(初代遊行承認一遍、鎌倉:1259年〜1289年)
 時宗(じしゅう)の宗主である38代の遊行上人が、布教のため陸奥の国から国見峠を越えて秋田に入っています。

佐竹義文(さたけよしぶみ)
 
佐竹北家の当主で秋田藩の執政まで兼ねた「佐竹義文」が江戸から戻るときに国見峠を越えています。
富本繁太夫(とみもとしげたゆう)
 
「筆満加勢」というたび日記を記した旅芸人の富本繁太夫が国見峠を越えてこのときに、峠の無人交易ことを記しています。
橋本五郎佐右衛門(はしもとごろうざえもん)(1784〜)
 
秋田藩の重臣。藩命で江戸に向かう途中、吹雪の国見峠を越えています。その難渋の様子を自らの日記「八丁夜話(はっちょうよわ)」に記録しています。
十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)(江戸:1765〜1831)
 「
膝栗毛(ひざくりげ)」で著名な十返捨一九は、もうひとつの代表作「方言修行(むだしゅぎょう)・金草鞋(かねのわらじ)」の中で、角館から盛岡を目指した国見峠を越え様子を描いています。
九条道孝(くじょうみちたか)(江戸〜明治」:1839年〜1906年)
 奥羽の戊辰(ぼしん)戦争の直前、奥羽鎮守総督であった九条道孝は、仙台・盛岡を経て国見峠を越えて秋田に向かいました。一行は総計1300人もの大部隊で慶応4年(1868)6月23日から24日25日に分かれて通過しています。
大久保利通(おおくぼとしみち)(江戸〜明治:1830年〜1878年
 明治の元勲で参議「大久保利通」が明治9年7月秋田で天皇を迎えるために、峠を人力車で越えています。「仙岩峠」の名付け親は大久保利通といわれています。
田山 花袋(たやまかたい)(明治〜昭和:1872年〜1930年)
 明治の小説家であり詩人である田山花袋は単身仙岩峠を越える途中、足をいためていたところ、ヒヤ潟に鯉を放流しに来た生保内(仙北市田沢湖)里人に助けれれて峠を越えています。
平福百穂(ひらふくひゃくすい)
角館生まれの画家でアララビ派の歌人「平福百穂」は、東京の美術学校からの帰郷には、何度も仙岩峠を越えています。