伝承と推測だけであった国見峠・生保内峠の存在は、戦国時代末期に初めて史書にその名前が登場する。「奥羽永慶軍記」に、天正15(1587)年南部氏の重臣「北信愛(きたのぶちか)」が、豊臣秀吉へのとりなしを頼むために、秀吉の重臣として名高い加賀の前田家を頼ってこの産内峠(国見峠)を越えた記述がある

 「奥羽永慶軍紀」によると北信愛は、産内山と呼ばれた国見峠を越えて、当時戦乱の地であった出羽の国に入り、日本海ルートで加賀の前田利家を訪ね、豊臣秀吉へのとりなしを頼み、その後、前田家の多田右京亮とともに厳しい冬の国見峠を越えて南部領に戻った。
 そのことが、南部信直の小田原参陣と南部藩の領地安堵につながった。
 この小田原参陣を怠ったために、陸奥の国では、稗貫氏、和賀氏、葛西氏などが秀吉に領地を召し上げられている

早春の国見峠への道

史書に登場する国見峠

 宝亀12(780)年「続日本記」に「石沢道」の表記があり、これが国見峠(産内峠・生保内峠)の最初と表記とされる。しかしそれ以降国見峠に関する史書の表記は見当たらず、戦道(いくさみち)として峠の存在は感じさせるものの峠の名前が出てこない。
ただ伝承のみが残るだけの峠道となる。

仙岩峠から見る雪景色

雪の国見峠

豊臣秀吉へのとりなしのために冬の国見峠を越える南部家「重臣」

伝承の峠道

史書に登場した産内山(国見峠)

北信愛(きたのぶちか)

 南部家の一族で重臣、剣吉(現:青森県三戸郡南部町剣吉)城主。南部家の跡目争いで南部信直を擁立するなど、戦国末期に活躍。花巻城主などを歴任。南部氏の御三家(「遠野南部家」「中野家」「北家」)に数えられる。