出羽と陸奥の国境となる国見峠は、国境として常に争いの場でもあった。
古代から開かれた峠道は、坂上田村麻呂やアテルイの時代から利用され、奥州藤原氏が滅んだ文治の合戦でも、日本海ルートをたどった鎌倉軍が源頼朝の本隊と合流するために出羽の国から国見峠を越えたと言われている。
南北朝時代には南朝方の北畠顕信と南部勢力が、室町から戦国時代は南部氏や小野寺氏、安藤氏など、陸奥と出羽の地頭や国侍たちがそれぞれの時代に双方の領地の拡大を目指して峠を越えて争った伝承が語り継がれている。
結局、寛永10(1633)年幕府が地方に派遣した巡見使の見立てによって、秋田藩「佐竹氏」と盛岡藩「南部氏」の藩境は定められ、秋田藩は的方に盛岡藩は国見峠に、塚と標柱によって藩境を標し、これが出羽と陸奥の藩境(国境)として認められた。やがてそれぞれ石の標柱を築いて、現在もその標柱が残っている。
秋田藩と盛岡藩の藩境争い
江戸時代を迎え、秋田に常陸の国から「佐竹氏」が移封されると、国見峠は陸奥の国の「南部氏」の藩境(国境)争いの場となった。双方とも主張を譲らず、藩境争いは18年にわたり続けられ、常に国見峠は緊迫した状況が続いていた。
国見峠に立つ盛岡領の石標
的方に立つ秋田領の石標
笹森岳
秋田領の道
盛岡領の石標
ヒヤ潟
貝吹岳
秋田領の石標
橋場の盛岡領関所跡
生保内の秋田領関所跡
助小屋
国見峠
藩境
藩境