江戸時代に入り長く続いた戦乱の時代が終わりを告げ人々の平和な暮らしが始まった。平和な時代は人や物資の交流を加速させる。
国見峠は、秋田と盛岡を結ぶ重要な道として認識され、ふもとの住民たちによって峠道の改修が行われた。
 また、徳川幕府が将軍が替わるたびに地方に派遣する「巡見使」や馬の産地として名高い出羽や陸奥の国に駿馬を求めて「公儀御馬買衆」と呼ばれる幕府の馬買い役人やそれについてきた諸国の大名などの馬買い人がこの国見峠を利用するようになった。
 秋田藩も盛岡藩も江戸幕府への配慮からその都度道普請によって峠道を改修し、そのことによりますます峠道は整備され人や物資の交流も盛んになった。

 

 人と馬による交通にあわせたこの峠道は、稜線近くを直線的に結ぶ道で、九十九折がすくないため傾斜のきつい道となった。道は地面を掘り下げ、その両側にその土を盛り上げる「堀割」という方法で作られた。人力しかない時代は、きつい仕事だったと思われる。

 この「掘割」の道は、掘り下げられ左右に盛られた土により道そのものがわかりやすいことと、冬はそこに雪が積もり春遅くまで解けないためにいばらや笹などの道の障害となる植物の生育を妨げ、そのため道はそれほど手をかけなくてもそのままで保存される。その道は100年以上利用されることがなかった今でもはっきりと道であったことがわかり、一部の崩落した場所以外は比較的快適に利用でき江戸時代の人々の道を作る知恵を感じることができる。

 国見峠の一帯には、正確な調査を待たなければならないものの「江戸時代の道がかなりの割合(推測では8割以上)で手付かずで残されている。

 5月の連休以降も雪が残る国見峠にはた江戸時代の道に残雪がが白い帯のように続く。
滑るので注意は必要だが、快適な歩行道路として利用できる。

江戸時代の道

工法

掘割道

掘割道
雪の残る掘割道