巡見使と公儀御馬買衆

 江戸幕府は軍馬購入のために、毎年9月、馬産地である出羽と南部に馬買い役人を派遣した。これを「御馬買衆」と呼び、一行は宮城県刈田郡から玉野街道を通り、出羽の国に出て、横手、六郷、角館、生保内、生保内峠(国見峠)を越えて盛岡に入った。「御馬買」は寛永2(1625)年にはじめられ、元禄3(1690)年を最後に廃止された。実施されたのは65年間であった

 徳川幕府は三代家光以降、将軍が変わるたびに諸国に巡見使を派遣して国情、民情を調べた。この巡見使も羽州街道を北上し、国見峠を越えて盛岡に入った。
 東北地方は、三代将軍「家光」の寛永10(1633)年から十二代将軍「家慶」の天保9(1838)年まで9度派遣している。

 巡見使の報告は非常に綿密で、幕府の行政に役立てられた。
巡見使の費用は幕府の負担とされ、訪れる藩には「お構いなし」という名目であったが、実際は巡見使を迎える藩の出費は多大であった。巡見使を迎えるための道普請が行われ、一般庶民の往来が盛んになることで道沿いの村々の交流は盛んになった。
 巡見使は、御使番1名、小姓組番の書院番の中から2名で計3名、定石人数は35名の一行であたった。


 

公儀御馬買衆
(こうぎおんうまかいしゅう)

巡見使
(じゅんけんし)