雫石町史によると南北朝(1336〜1392年)の頃、雫石城に北畠顕家の弟で南朝方の鎮守将軍「北畠顕信」が身を寄せ、この地方の南部氏を中心とする南朝方の豪族を集めて、国見峠を越えて秋田の金沢の柵に入り、多賀城を目指したことが伝えられている。北畠顕信は南朝の鎮守府将軍として陸奥にやってきたが、北朝方に圧迫され南東北から南部氏の支援を得て北東北に転戦、その後雫石から秋田を本拠にして戦った秋田に縁の深い武将。南北朝の争いは、中央から遠いこの地でも地域を巻き込み激しく争われていたことが伝えられてる。

滴石城物語

 そびえたつ奥羽山脈によって隔てられた秋田県側の生保内と岩手県側の橋場は、その山並の険しさにもかかわらず、二つの地に共通して伝わるさまざまな伝承が残され古くから峠道が拓かれていたことをうかがわせる。

 雫石と生保内双方に伝わる坂上田村麻呂と大武丸(大高丸)の伝承や、国見峠を開いたのは田村麻呂であるという伝承が今も生保内に伝わっている他、大仙市中仙町の八乙女公園や仙北市の抱返神社に伝わる前九年合戦における源義家と安倍貞任にかかわる伝承がある。
 そして、史書には登場しないにもかかわわらず、中世のこの峠を越える幾多の戦(いくさ)の伝承が、往時の峠道の存在を鮮やかに伝えている。

 岩手県が主戦場となった前九年合戦。しかし国見・仙岩峠を越えた秋田にもその伝承が残っている。草g家に伝わる義家を道案内した生保内の住人「小太郎」の伝承。また抱返渓谷の入り口にある「抱返神社(田沢湖町)」のいわれは、源義家が厨川の柵の合戦に赴くときに、この地で持仏を使い戦勝祈願を行い、勝利してその持仏を抱きかえって納めたことから持仏の抱き返りにちなんで名づけられたという伝承がもとになっている。
 また、秋田の中仙町の桜の名所「八乙女公園」の伝承には、安倍氏の城柵であった八乙女城に安倍貞任と玉川を挟んだ対岸の幕林八幡神社に源義家が対峙したという伝承もある(秋田県歴史散歩)。
史書には登場しない前九年合戦の伝承は、当時から岩手と仙北を結ぶ峠道の存在を伝えている。

史書に登場しない前九年合戦

国見峠から見た岩手山

峠の伝承

抱返神社のいわれを伝える看板

伝承が伝える古代から利用されていた峠の存在。