国見峠をめぐる「戦道」としての記録はそれほど多くないが、その峠道の存在をうかがわせる古代からの伝承が、戦とのかかわりと重なっている。もちろん戦とはかかわりなく人々の移動によって伝わった伝承もあると考えられるが、それを伝えた人々もこの峠越えていたからこそ伝承として残っている。そのとき通った峠は、もちろん江戸時代の国見峠とは異なる場所を通っていたかもしれないが確かに雫石(滴石)と生保内を結ぶ峠道は拓かれ存在していたはずである。

戊辰戦争で激戦地となった生保内神社

戦道としての国見峠

前九年合戦(1051〜1062年)の戦道

文治合戦の戦道(1189年

南北朝の合戦の戦道(1351年

室町・戦国時代の戦道(1456年)

戊辰戦争の戦道(1864年)

戊辰戦争山中の図(雫石町教育委員会)

 明治維新直前の慶応4年、奥羽列藩同盟に加盟している盛岡藩は国見峠を越えて生保内に攻め入り、官軍と激戦するが敗退し、逆に官軍が国見峠を越えて橋場に攻め入り、盛岡藩は降伏する。そのことは今でも昨日の事のようにふもとでは語り継がれている。

 国見峠(生保内峠)は、三戸から南下する南部氏が峠を越えて仙北に攻め入り、また逆に、仙北の小野寺氏や戸沢氏が峠を越えて滴石に攻め入った伝承がある。国見峠や貝吹岳は、南部氏に追われた戸沢氏が、国を眺めたりほら貝を吹かせたことから名付けられたと伝えられている

 南北朝時代は、南朝の鎮守府将軍「北畠顕信」が滴石城に逗留し、滴石から国見峠を越えて仙北に入り、やがて多賀城や秋田で合戦を繰り広げた。

 奥州藤原氏が滅んだ文治の合戦では、北陸道を通った比企能因や宇佐美実政ら源氏の大軍が秋田の奥藤原軍を破り、国見峠を越えて陣が岡(現:紫波町)に参陣したと伝えられる。

 源義家にまつわる抱返神社の由来記などから、安倍氏と源氏軍側で国見峠(生保内峠)を越えて戦いあったことが推測される。

抱返り渓谷

 慶応4年(1868)8月28日、29日の生保内口でも南部藩と官軍の攻防があり、生保内神社から武蔵野の広い範囲で激しい戦闘が繰り広げられました。