道の種類と内容 写真 道の特徴とのエピソード
江戸時代の道

 徳川幕府の命令で街道が整備され、それに合わせて脇街道も整備された。江戸時代の道は、国見峠あるいは生保内峠と呼ばれ、秋田藩(佐竹氏)と盛岡藩(南部氏)によって共同で整備された。



写真:江戸の掘割道
 江戸時代の幕府の巡見使や公儀御馬買衆が通るたびに峠道の道普請が行われ、道はますます整備された。
基本的に、歩行と馬による通行が前提なので直線的でその分道の傾斜がきつかった。
工法は、掘割という方法で道を掘り込み、そこにたまる雪が植生の成長を阻み、道が藪に侵食されることを防いでいる。国見峠の江戸の道の保存状態は今も良好でかなりの部分で確認できる。
明治から大正の昭和の道

 明治8年から工事を開始し、明治9年に完成した新しい峠道。それまでの道と大きくはなれて、生保内から国見峠を通らすヒヤ潟に出る道。



写真:明治の道
 明治維新によって藩がなくなり、自由な通行が可能になった。そして、より早く人や荷物を運ぶために、人力車や荷車が通れる道を作る必要から、新しい峠道が整備された。道は江戸の道にくらべて広くしかも緩斜面にするためにつづらおりの上りく下りの道となった。この新しい峠道は「仙岩峠」と内務卿「大久保利通」によって命名された。現在この平坦な道は、木や草などが生茂り、また、沢水の浸食によってかなり痛んでいる。
昭和39年〜昭和51年までの道

 昭和32年から工事を開始して昭和39年に完成した道。初めて国道(46号)に指定された道。別名南八幡平パークライン。

写真:雪で閉鎖された道
 降雪による閉鎖で半年しか利用できなかったこの道はたった12年間使用されただけで、仙岩道路に役割を譲った。現在、岩手側は国見温泉の手前と秋田側は仙岩峠の茶屋前で閉鎖されている。道路は一部がけ崩れの落石などが見られるが、許可を得られればヒヤ潟までの通行は可能。
昭和51年から現代の道

 昭和51年に完成した仙岩道路、仙岩トンネルに代表される8つのトンネルと21本橋がつなぐ現代の道。




写真;仙岩トンネル岩手側入り口

 通年通行が可能な仙岩道路は、大量高速時代の太平洋と日本海を結ぶ動脈となっている。秋田側のふもとには仙岩防災ステーションがあり、仙岩峠に関する知識や情報が得られる。また岩手側のふもとには道の駅雫石あねっこがあり、峠の賑わいを今に映し出している。
東北電力の電気の道

 江戸時代の道や明治の道と微妙に関連づけられたまた交差する作業道。ヒヤ潟と仙岩峠はそのまま明治・大正の道にほとんど同じような道筋となりその上部の稜線上を江戸の道が通っている。峠に整備された高圧線の塔を管理するための東北電力の作業道。

遠くに貝吹岳と的方が見える
 江戸の峠道の探訪は、林道や東北電力の作業道が便利。坂本川沿いの林道から東北電力の作業道に沿って江戸の掘割道が続いている。。ただ、明治の道は藪や道の崩落で危険なので専門家の誘導が必要。ヒヤ潟から的方の秋田領境の石標柱までは、その作業道がそのまま明治の道。またその上の稜線には江戸の道が残っている。

国見・仙岩峠の5つの道