国見峠・仙岩峠の主な記録


記録と著書 著者 主な内容
奥羽永慶軍記
(おううえいけいぐんき)

戸部一憨斉正直
(とべいっかんさい)
正保2年(1645)年秋田雄勝郡生まれ。奥羽地方の中世から近世への動乱期の様子を描いた軍記。
 戦国末期南部氏の重臣「北信愛」が、南部信直の命で、加賀の前田家に豊臣秀吉へのとりなしを頼みに行くため、産内山(国見峠)越えた記述がある。
千賀の紀行 佐竹義文
(さたけよしぶみ)
角館佐竹北家の当主、秋田藩の執政として藩政を見る。蘭画や俳諧などの堪能な文化人。
 文政3年(1820)3月江戸詰めの帰り道に、国見峠を越えて秋田にに向かう。深い雪の峠道の厳しさや頂上で出羽の仙北郡の眺望を記している。
筆満可勢(ふでまかせ)
富本繁太夫
(とみもとしげたゆう)
江戸の芸人で、奥羽を芸を披露しながら旅した旅日記を克明に記している。
 江戸の旅芸人「富本繁太夫」の旅日記。橋場の様子や関銭(関所の通行料・通行税)、駄賃(馬で荷物を運ぶ料金)などが詳しく記録され、峠の様子や頂上での「無人交易」のことを伝えている。
方言修行・金草鞋
(むだしゅぎょう・
かねのわらじ)
十返捨一九
(じゅっぺんしゃいっく)
やじ・きた道中で有名な「東海道中膝栗毛」を書いた江戸時代の紀行作家。
 奥州山鹿の狂歌師、鼻毛延高(はなげのびたか)と遊歴僧「千久羅坊(ちくらぼう)」を主人公にした旅版画。国見峠は奥州路の「南部路記旅雀」に紹介されている。
角館から国見峠を越えて盛岡に行く途中
「生保内」という図に描かれている。天保元年(1830)の作
八丁夜話 橋本五郎左衛門
(はしもとごろうさえもん)
秋田藩の重臣、藩内の出来事を「八丁夜話」という日記で残している。
 橋本五郎左衛門は秋田藩の重臣で天保2年(1831)藩命で江戸に出張する途中の吹雪の国見峠を越える様子を自分の日記「八丁夜話」に記録している。吹雪で引き返す様子など、冬の峠越えの厳しさを伝えている。
東北紀行・函館より江戸へ JMマラン神父の一行
フランス人で横浜や函館で布教活動を行った。スイス人の商人兄弟と峠を越えた。
 明治4年5月22日、国見峠(生保内峠)を越える最初の外国人。橋場から国見峠を越える景色の変化と、かいま見る田沢湖の様子を伝えている。
「東京の三十年」の中の
私と私
田山花袋
(たやまかたい)
明治時代の小説家・詩人。代表作に「布団」や「田舎教師」がある。
 明治27年、橋場から仙岩峠を越える途中に足を痛めていたところ、ヒヤ潟の来ていた生保内の里人に助けられて峠を下りる。その時に詠んだ詩が生保内公園の歌碑となっている。
寒竹 平福百穂
(ひらふくひゃくすい)
明治10年、角館の画家「平福穂庵」の四子として生まれ、画家のほかに「アララギ派」の歌人としても知られている。
 平福百穂は、盛岡の商人「瀬川安五郎」の支援を受け、東京で絵画を学ぶために幼くして仙岩峠を越え、その後何度か帰郷するときに仙岩峠を越えてその時の様子を歌に詠んでいる。

十返捨一九「方言修行・金草鞋」
南部路記旅雀「生保内

吉田義昭氏蔵