「峠の学校(仮称)」の開校にむけて参加者募集

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「峠」からのメッセージ

「峠」という文字は、中国から伝わった漢字ではありません。山の多い日本で生まれた言葉で、まさの字のごとく「山」の「上り」と「下り」の「道」を言います。
 「道」という言葉が、たくさんの意味やイメージを持っているように、「峠」という言葉にはいろいろな使われ方があり、どこか不思議なメッセージを放っています。
 越える「苦しみ」。越えた「喜び」。「未知への想い」「郷愁」「別れ」そして、どこか非日常的な「ロマン」のようなもの感じさせます。このなぜか「峠」という言葉に魅かれて、私たち「秋田岩手横軸連携交流会」のメンバーは、峠を目指します

奥羽山脈が隔てたもの

 北東北を奥羽山脈が縦に走り、陸奥(むつと出羽(でわ)の二つの国と異なる風土を作り出し、そのために隣国同士でありながら、人のくらし方も文化もどこか異なるものが育ってきました。
 しかし、古代から、交易のために、そして戦(いくさ)のためにこの山脈を越えて人々が移動していたことを示す伝承や記録が残っており、まるで障壁のように険しい奥羽山脈の山並みを縫うように、峠道が拓かれていたことをうかがい知ることができます

 古代から産内山(うぶないさん)、生保内峠(おぼないとうげ)、また室町時代になると国見峠と呼ばれたこの峠道も、江戸時代になると、街道に変わります。徳川幕府の命により秋田藩(佐竹家)の久保田(現秋田市)と盛岡藩(南部家)の盛岡を結ぶ脇街道が整備され、「秋田街道・秋田往来」あるいは「南部街道」の「国見峠」「生保内峠」という名称で呼ばれるようになり、峠道はさらに重要度を増します。時代が明治になると人力車や荷車通行のための新たな峠道が整備され、大久保利通によって「仙岩峠」と命名されます。さらに時代が変わると、さらに自動車用の新しい峠道がひらかれ一級国道46号仙岩道路(:南八幡平パークライン)、昭和51年からは、仙岩トンネルに代表される現在の一般国道46号仙岩道路となり、交通手段の変化と技術の進歩により、この峠道は常に進化してきました。

峠道の進化の博物館

 江戸時代からの峠道の変遷により、それまでの道は放棄されました。一般の道であれば、その道の上を整備して古い道は失われてしまいますが、ここ国見峠・仙岩峠では、その時代の交通手段と工法と技術によって、それぞれ異なるルートで道が作られました。
 急峻な尾根伝いを直線的に掘割(ほりわり)という方法で作られた江戸の道。明治初期に荷車が通行できる広さと緩い傾斜が必要なために、山腹を掘削して作られた道。昭和になって自動車通行のために、ある程度直線を確保しながらも九十九折に整備された道。トンネルの掘削技術と橋梁の架橋技術によって作られた現代の国道46号仙岩道路。
 合わせると4つの時代の峠道が整備され、その道の核心部は、交差することがあっても、それぞれ別のルートを通過し、まるで峠道の博物館のようにこの国見峠・仙岩峠の山中に残されています。

「峠の学校」の開校にむけて

 私たち「秋田岩手横軸連携交流会」は、秋田〜盛岡〜宮古までの道をとおして、人と物の交流、地域の活性化に取り組んでいます。秋田と岩手の人や物資文化などの交流を進めてきいてそしてその交流のシンボルとして、国見峠・仙岩峠の道の調査を続けるうちに、この「国見峠・仙岩峠」一帯を「峠の意味」を考える上で非常に貴重な資産であることを深く実感いたしました。しかし、それら貴重な峠道は時間とともに風化にさらされ、崩落や植生の侵食により崩壊が進んでおります。
 今後さらに調査を進めるとともに、この峠道の存在を紹介し、保存し、かつ活用することが課題であり、さらにさまざまな方々のご協力、活動へのご参加をお願いしなければならないと考えています。
 仙岩トンネルをはじめとする8つのトンネルや21もの橋が結ぶ国道46号仙岩道路。その便利さをなんとなくあたりまえのようの考えてしまっている今日、峠道の歴史を知ることが、今の道の価値を知ることであり、また未来の道を考えることにつながっていくと考えます。
 そのため「峠道の博物館」とも呼びたいようなこの峠について、関心を持って一緒に考え、活動する方々を募集し、その連絡協議会「峠の学校(:仮称)」の結成を模索しております。
 この「国見峠・仙岩峠」に関心のある方々や、さまざまなご意見をお持ちの方々、一緒に出かけ、見学と体験を通じてこの峠の考える「峠の学校」の活動のぜひご参加ください。