江戸時代の道

助小屋跡

ヒヤ潟から国見峠に向かう道

春おそくまで残る江戸時代の道の雪

 稜線上を最短距離を結ぶ江戸時代の道は、傾斜がきついものの掘割と呼ばれる方法で作られ、春遅くまで雪が残るために歩きやすく、今でも良好な状態で保存されてる。

公儀御馬買衆や巡見使の通過によって峠道の整備が進む

峠道は、それぞれの藩境までが、それぞれの藩で、緩衝地帯は両藩が共同で整備したといわれる。

 江戸時代になると平和が訪れ、盛岡城の築城による仙北の人々の出稼ぎにはじまり、峠道は物資の交流がますます盛んになってきた。そして、江戸幕府から「公儀御馬買衆」や「巡見使」が訪れ、そのたびに秋田藩と盛岡藩では道の整備を行なった、そのことがさらに人や物資の交流を加速させた。

江戸の道の行程
 江戸時代に利用された道は国見峠を通る道で、秋田からは「生保内札場から六枚野の登り口まで6丁40間、そこから六枚野の一里塚まで11丁13間、一里塚より坂上上り口まで10丁40、そこから土のぼっと一里塚まで24丁18間、塚より国見まで16丁40間、国見より的方まで27丁20間。合わせて12里25丁6間、その他2里10丁49間で境目より南部領橋場村まで合わせて15里5間
※歴史の道調査「生保内街道」より

生保内関所

国見温泉

藩境

国見峠

盛岡領石標

的方 秋田領石標

一里塚

貝吹岳

藩境

ヒヤ潟

助小屋

江戸時代の道

江戸時代の道

橋場の関所

秋田領

盛岡領

盛岡領

秋田領

笹森岳