助小屋とは
国見峠を越えるときの休憩所や避難小屋として設置された簡単な山小屋別名「山中の小屋」とも呼ばれた。「助小屋」は秋田領と盛岡領の藩境の緩衝地域となる稜線上にあり、秋田側からも盛岡側からも助小屋までは、自由に行くことがができた。
この藩境の緩衝地帯の特性を利用して、ふもとの生保内(仙北市)と雫石の人々の助小屋を利用した無人交易が行われていたことが、江戸時代の旅芸人「富本繁太夫」の旅日記に記されている。
助小屋の位置
助小屋の位置は、大正4年発行の地図にも記載されている。地図上には3つの助小屋がはっきりと記載されており、この時期はそれぞれの助小屋が使われていた。秋田で鉱山経営を行っていた瀬川安五郎(盛岡出身)は、道普請に資金提供したり、助小屋を建てて寄付している。
大正5年の地図(3つの助小屋が記させれている)
ヒヤ潟と稜線で確認できる助小屋
江戸の旅芸人が記した国見峠の助小屋物語
助小屋跡地の石標
繁太夫の筆満可勢記述
「南部の国より荷物抔重き品を秋田辺江送るに頂上に持来り、其儘据置く。秋田より来る人足其通にして。帰り足に入替に持行。此荷物抔盗人決してなしといふ。」